友達が多かったです。毎日のように誰かと若宮公園で缶蹴りをしたり児童館でドッジボールをしたり家でゲームをやったりしていました。 物を作るのも好きでプラモデルを組み立てたり、キャラクター消しゴムを切って接着剤でつけたり、小刀で鉛筆を削ったりしていました。母が裁縫やキルティングや編み物をするので一緒にやったりもしました。 私の勤める小宮畳店は母の実家で、家からさほど遠くないのでよく遊びに行きました。休みの日にはお店の前で兄や従弟と畳の端材でチャンバラをしたりしました。 祖父と叔父が平成2年の大嘗祭に使用される畳を作っていた当時、母に頼まれてお店に行くと警備をしていた警察官に身元と用件を聞かれ緊張したのを覚えています。
幼いころ、畳屋の仕事場は嗅ぎ慣れない香りがして不思議な空間でした。小学生の時に休み中の課題で小さい畳を作らせてもらいました。興味があったし触りたかったのだと思います。 20歳の時に祖父に「大学を出たら畳屋にならないか?」と言われました。幼い頃から父も周りの大人も自営業の環境で育ったのでスーツを着てサラリーマンになるイメージが沸かず悩んでいた時でした。 大学卒業後の進路を本格的に考える前だったので転機だったと思います。
最初の仕事は人形町の某飲食店の畳を店に持って帰る作業でした。二階から車へ畳を積み込む作業です。 体格も力も人並みにあったのでたいしたことないと思っていましたがとんでもない。畳が持てません。階段から担いで下ろすのに一苦労です。 祖父はそのうち慣れるよと笑っていましたが、私は内心とんでもないことになったと思っていました。 畳訓練校では素晴らしい仲間と先生に恵まれました。貴重な手縫い用の針を折ってしまったり曲げてしまったり包丁を研いでいて指を削ってしまったり製作寸法を間違えたり…色んな失敗をしましたが身になっている気がします。 一級畳製作技能士試験に受かったとき、ようやく職人になれたかな?と思いました。 平成26年から縁あって選定保存技術保存団体 文化財畳保存会の研修に参加させていただいています。 年に数回京都やその他の地域へ行き東京では見られない歴史ある木造建造物とそこにある畳の勉強をしています。 参加されている方々の技術と知識を少しでも学べればと思っています。
畳屋は畳を作る仕事ですが、その前後には”和室の荷物やタンスを片づける””畳を運ぶ””片づけた荷物を元の位置に戻す”があります。 仕事の半分は物を動かすことです。その結果以前と同じ部屋になるのではなく、より良い部屋にしたいと思っています。 その為に材料の選別だけではなく畳の凹みを直す、隙間がなくなるように藁を足す、部屋のゆがみに合わせて寸法を改めるなどの手間は惜しまないようにしています。 畳を納めてお客様に喜んで貰えることが一番じゃないでしょうか。
どんどん機械化が進んでいますが、有職畳は機械では作れません。あくまで畳制作の基本は手作業と心得ています。 「他人に出来ることは自分にも出来る」 畳訓練校の先生に言われた言葉です。 逆も然り。自分に出来ることは他人にも出来る。だから努力をするし勉強をするし挑戦をするのだと解釈しています。 基本を忘れずに新しいものにも対応できる職人になりたいと思います。