市松人形の名は、江戸時代(えどじだい)に活躍した人気歌舞伎役者「佐野川市松(さのがわいちまつ)」に由来していると言われています。 また、呼び名は各地域により様々にあったようです。現在では、「市松( いちまつ 又は いちま)」という呼び名が全国で通じる名となりました。市松人形の特徴は元来、胴・腰があり衣装が着せ替えられるところにあります。人形の存在は、土で作られた「埴輪(はにわ)」や木や布で作られた「天児(あまがつ)」など身代わりとして使われはじめたようです。 市松人形という名で知られる「抱き人形」の始まりは室町時代(むろまちじだい)から公家(くげ)の子どもの遊びに登場したと言われています。その頃の「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき) 」という書籍に「にんぎやう」という語で出てきます。江戸時代中期には一般庶民へと広がりその頃作り手の技術も確立されました。のちに幼児を模った幼子人形(おさなごにんぎょう)や這い子人形(はいこにんぎょう)なども作られてきました。
名 前:藤村 紫雲
工芸品:市松人形
住 所:墨田区本所3-28-2
略 歴:昭和34年 東京墨田区生まれ
昭和58年 人形師の叔父、藤村明光氏に師事
昭和63年 台湾で伝統工芸技術者と交流
平成 2年 アメリカ・シカゴでデモンストレーション(92/93/96年同)
平成 3年 アメリカ・ニューヨーク ニュージャージーでデモンストレーション
平成 5年 人形師の祖父「紫雲」の号を襲名
平成 6年 フランス・パリでデモンストレーション
平成 7年 松屋銀座ギャラリー和の座 初個展
平成 7年 東京都青年優秀技能者知事賞受賞
平成 8年 独立 「人形工房 紫雲」設立
平成10年 鹿児島・SATYスタジオギャラリー(99/00/01/02年同)
平成10年 横浜そごうジャパンショップ
平成11年 松屋銀座ギャラリー和の座(00/01年同)
平成12年 札幌 丸井今井 アートサロン
平成13年 第1回 軽井沢芸術祭 オペラ紙芝居「蝶々夫人」 人形協力
平成14年 テレビ東京系「あかたのげん」出演
平成14年 札幌 丸井今井 美術工芸ギャラリー<幼子人形二人展>
平成14年 名古屋 ノリタケの森ギャラリー<藤村紫雲 市松人形展>
平成16年 吉徳浅草橋本店
平成17年 大阪 「蔵」のギャラリーCLASSIC1010「市松人形 展」出品
平成17年 NHKラジオ 「ラジオ深夜便 東京ぶらり旅~春を呼ぶ市松人形~」出演
平成18年 丸善名古屋栄店ギャラリー
平成18年 丸善岡山シンフォニービル店ギャラリー
平成18年 ジャパンFMネットワーク系列ラジオ番組「匠のことば」出演
平成19年 丸善福岡ビル店ギャラリー
平成19年 テレビ朝日「食彩の王国」出演・横浜人形の家
平成20年 札幌大通美術館ギャラリー
平成20年 すみだマイスター認定
平成21年 名古屋丸善栄店ギャラリー 出品
平成21年 吉徳浅草橋本店 出品
平成23年 2月 墨田区伝統的工芸技術保持者認定
☆仕事のこだわり:私が作っている人形は、桐の木 ・ 桐塑(とうそ)を基礎として胡粉(ごふん)と膠(にかわ)を混ぜて塗り、彫刻 ・ 面相(めんそう)をして、髪毛には人毛(じんもう)や絹糸を使用する伝統的な材料・手法により制作しています。着物は一本の帯を結んで着せる日本に昔からある着せ替え人形です。
伝えたいこと
■ 少年時代
昭和39年(1964年)東京に生まれた私の遊びといえば、鬼ごっこやかくれんぼ・野球のようなたくさんの友達との遊び、そして道具を使う遊びもありました。 その頃は、遊び道具の材料が変わり始めた頃でした。棒が金属でできている竹馬・ビニール製の凧やコーララベルのヨーヨー・アメリカンクラッカーなど、そしてコマやけん玉までプラスチックで作られた遊び道具が流行になりました。雨の日などは、野球などのゲーム板やテレビのヒーローたちの絵を描いたりなど新しい遊びやマンガが楽しい時でした。そして、人形屋に生まれた私にはお父さんやおじいさんのいる仕事場も遊び場でした。人形の材料と道具を持ち、いたずらのようなお手伝いをしていました。外で遊ぶのと同じくらい作ることが好きで、プラモデルもたくさん作りました。小学校でも図工が好きで成績も良いほうでした。
中学生になり運動も得意で野球やバスケットボールなどをしていました。水泳や陸上競技では、学校の代表選手になり競技大会にも出場するなど、スポーツ選手に憧れていた子供時代でした。
■ 職人になるきっかけ
私が中学生の頃に、それまでは家で作った人形を箱に詰めて人形を売っているお店に納めていた祖父と父母たちが、区役所やデパートの依頼でたくさんの人の前で人形作りを見てもらい、人形の良さを知っていただく仕事が増えてきました。人形をきれいに並べて、人形好きのお客様とお話をして人形を買っていただく姿を見るようになったのです。私には初めて見る姿でした。いろいろな驚きを感じたことを覚えています。 お金をいただいて買っていただいているのに、お客様がとても幸せそうな笑顔を見せ、「子供の頃から憧れていたお人形に出会えた。ありがとう。」と、お礼を言っていただいているのです。それまでは、私たち家族が生活するための仕事としか思っていなかったのに、こんなに人に喜んでいただける素敵な仕事なのだという事を知りました。しかし、その頃は人形作りを私の仕事にしようとは思いませんでした。
中学生から高校生の初めの頃は、私には出来ない仕事だと思っていました。朝早くから夜遅くまで座り続けて人形作りをしている祖父や父母の姿を見て育ち、座り続けて仕事をする自信がありませんでした。しかし、高校2年生の夏休みにお小遣いが欲しくて、祖父の人形作りのアルバイトをしました。お金をいただくので朝から夕方までの仕事です。夏休みのわずかな期間でしたが長い時間、座り続けて仕事をすることが出来たのです。そして、将来の仕事といて人形作りを考えるようになりました。高校1年生で父を亡くし、3年生の時に祖父が病気で人形作りが出来なくなり、いろいろ迷いましたが人形作りをしていた叔父に「やる気があるならやってみろ。20歳代のうちならダメでも何とかなるだろ。」の言葉で人形屋になる決心をしました。
■ 職人になってから現在
人形作りを覚えるのは大変でした。今でも同じです。仕事を始めて3・4年経った頃、私の一生の仕事は人形屋だという気持ちが強くなりました。お金をいただける人形を作ることはとても大変な事です。しかし、一歩ずつ作る技術を身に付けている自分に気づいて来ました。難しいと思っていたことが、いつの間にか出来るようになっている。それが楽しいことなのです。その楽しさを少しずつ感じはじめていました。
今は、その頃よりも人形作りの難しさと大変さを感じています。その代わりに楽しさも、もっと感じるようになりました。私の作った人形で人が笑顔になっていただける時があるからです。そして32歳の時、目標のひとつだった独立をしました。人形を作る家を借り、自分で人形を作り、買ってもらい生活をするようになれたのです。小さな仕事場ですが、大きな大きな夢の詰まった私のお城です。大変な事もたくさんありますが、「今、好きで選んだ仕事を楽しんでいます。」"人形作り"という仕事に自信と誇りを持って、これからも続けたいと思っています。私の制作した人形が多くの人たちの暮らし彩り、「この子」と呼ばれ愛されることを願っています。
■ 職人哲学
人々は、この世に人形が無くても生きていられます。しかし、人形が無ければ活きていけないと思っています。私は、"人形作り"という仕事に自信と誇りを持って、これからも続けたいと思っています。私の制作した人形が多くの人たちの暮らし彩り、「この子」と呼ばれ愛されることを願っています。
■ 連絡先
氏 名:藤村 紫雲
住 所:墨田区本所3-28-2
電 話:03-3621-2659
メール:doll@d-shiun.com
URL:
https://d-shiun.com/