絵を書いたり、いろんなものを工作するのが好きな内気な子供だったと思います。家の手伝いは良くしました。高校生くらいまで、五右衛門風呂が有って、風呂の掃除から、湯を沸かす事まで私の仕事でした。ワラを上手に燃やすのはコツが要りましたね。
他所から貰った、古い木材を鉈や斧で割るのは今の子供たちには危険かもしれませんがちょっとした武術のようで楽しんでやっていました。そんな事が、手先や体を動かして、作業をする上での観を養っていたのかなと思います。
母の実家も畳屋、茅ヶ崎の叔父も畳屋、我が家は創業者である祖父がいて、私は生れた瞬間から、三代目として期待されていました。自分でもその気になって、中学生の頃から、畳を担いだり、遠くの現場へ寸法取りの手伝いに一緒に行ったりしていました。
経済的にも早く、父の手伝いをして上げなければと長男としてのプライドが有ったように思います。
実際に家業を継いでから、想像以上に汚くて、きつくて、辛い仕事だと知りました。家内工業ですから、給料だって、お小遣いの延長のようなものでした。それでも、畳訓練校に通い、同じように頑張っている同年代の他所の畳屋さんの事も知り、勇気付けられた事を思い出します。
昭和53年には家を建て替えることが出来て、返済の為にも必死に働きました。縁あって、昭和58年11月皇居賢所の畳工事請け負うようになって、実際の古い畳に触れたり、昔の畳作りの文献を調べる内に畳の歴史の重み、貴重さを再認識しました。
平成2年大嘗祭の畳を請け負う機会を得た時、其の仕事の難しさや量の多さもさる事ながら、我が家にとって土地の事や、家族の引越し、病気など多くのも難問が山積する中、無事、納められた体験は畳屋としての自信になりました。しかし、それ以上に感じた事は国の大切な行事のお手伝いをする事でそういった災い等から守られたとしか、思えないような不思議な体験でした。これは本当に素直な心境であり、自分が一生懸命やったから、無事納められたというレベルではなく、感謝するしかない経験となりました。
有職畳は長い歴史に培われた。日本人の美意識の象徴のようにも思います。私の作ったものも殆どが永く大切に使われて、ひょっとすると何十年か百年か後の職人に見られるかもしれません。恥ずかしくない仕事をしたいなと考えています。
日頃、畳屋として、扱っている畳は特に売りっぱなしにするような品物ではなく、数年のサイクルで裏返しをしたり、表替えをしながら長く使って頂くものです。
お客様へ納めた後のことを考えながら、見えない部分でも丁寧に、次に仕事をする時にやりやすいよう、仕事をしています。畳はわらを圧縮して、作っていますが長年使っていると部分的に凹んでしまったり、柔らかくなってしまったりします。そういう部分を張り替える時に其の都度補修することで、納めた畳が其の家に馴染んで行くような気がします。昔とは違った素材や、使われ方にも、順応していきたいと思っています。
自分自身が受け継いだ、畳職人としての技術を受け継いでもらう努力もさる事ながら、其の畳文化を育んできた日本独自の文化、風習を大切にしていきたいと思っています。畳の生活の魅力をいろいろの角度から、見直してもらう事に力を注ぎたい。